なにかを決めるとか推し進めるみたいなのが苦手です
昔からリーダーとかなにかの長とかをやったことがありません。(あるかもしれないけど覚えないです。)
進め方を決めたり、やることを割り振ったりすることが苦手。
それは多分、僕の小さい頃からの2つの悪癖が影響していると今ふと思いました。
一つは周りによく思われたいという八方美人的な性質。
もう一つは失敗したくない、責められたくないという逃げる性質。
この2つが自分の成長を阻害しているのではと思いました。
小さい頃から誰にも嫌われたくないと思っていて、八方美人的なところがあったように思います。
結構ひねくれた子供でもあったので、いい子だと思われる方法みたいなのもなんとなく分かっていて、そのとおりにすると色んな人から褒められて気持ちよかったんだと思います。
でも他人が望んでいるような行動をしているとどんどん自分の意思がなくなっていくんですよね。
小さい頃は割とそれでも良かったんですが、成長してくるにつれて自分の希望や意思を意識するようになって、
「果たして自分はどうしたいのだろうか」
とよく考えるようになりました。
なので最近は割と自分のしたいようにしているのですが、根本ではまだ抜けていないようで、
おそらく、ひとにネガティブな感情を向けられることに慣れていないんだと思います。
まだ、他人にどう思われるかを気にして生きている気がする。……いや、まだこの言い方は正確じゃないですね。
自分の決めたことに対して否定的な意見を言われると自分が否定されたように感じている?
「意見の否定」と「人格の否定」をうまく切り分けられていない?そう思ってちょっと調べてみました。そしたらドンピシャの記事が。
なるほど。この方が論じるように、意見の集合が人格なのであり、意見の否定は人格の一部の否定になりうる。というのは納得がいきます。
自分の場合だと、意見を否定された事によって「人格が否定された」と感じる程度が大きいのかもしれません。じゃあそれはなぜなのか。
いや、それも違う。やっぱり人格の否定と意見の否定をうまく切り分けられてない気がしてきました。
意見の否定に人格の否定が一部含まれているというのは事実だと思うのですが、その割合というのは言い方や、自分と相手の関係でいくらでも変わります。
人格の否定9割で意見の否定が1割に感じることもあれば、人格の否定1割で意見の否定が9割ということもあります。
それを今までの僕は切り分けられていませんでした。要は意見に反論されたときに自分自身が否定されているのか、自分の意見が否定されているのかが自分の中で明確ではなかったということ。
それはおそらく今まであまり否定されたことがなかったからかもしれません。むしろ否定されることを避けていたから人格への否定と意見への否定を選り分ける力が養われなかったのかもしれない。いずれにせよ自分にはその力は養われていないように感じました。
これからはその人が自分の意見を否定したときに、人格への否定が何割で意見への否定が何割なのか、そして人格の否定が多分に含まれているならば、なぜそういう言い方をしたのかを考えて受け止めようと思います。そうすればいくらか否定にビビることはなくなるはず。
自問自答の過程をそのまま晒したので、参考になったら幸いです。
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